アメリカ合衆国建国と植民地時代の歴史 その81 主要な政党の結成

Last Updated on 2025年3月24日 by 成田滋

この時代の大政党は、手段ではなく人の勝利を得るために作られたといえます。政党が誕生すると、その指導者たちは当然ながら、有権者に理念の優先を納得させようとしました。しかし、国内改善や国立銀行などの問題で対立していた人々がジャクソンの後ろで団結していきます。同時に、時間の経過とともに、各政党はそれぞれ特徴的で対立する政治的な政策と結びつけるようになっていきます。

 1840年代になると、ホイッグ(Whig)とヘンリー・クレイ (Henry Clay)らの人民共和党の下院議員は、対立する者として結集し投票するようになりました。ホイッグスは弱い行政府、新しい合衆国銀行、高い関税、州への土地収入の分配、恐慌の影響を緩和するための救済法、連邦議会の議席再配分などに賛成し、民主党は反対しました。民主党は独立国庫、積極的な外交政策、拡張主義を承認します。これらの問題は、議会で主要政党を二分したように、有権者を二分しうる重要な課題でありました。

 確かに、ジャクソン派が、アフリカ系アメリカ人や奴隷廃止論者に対して懲罰的な措置をとったり、アメリカ先住民の権利を保護する条約を無視して南部のインディアン部族を追放したり、その他の強硬な手段をとろうとしたりしました。しかし、こうした政策上の違いは、民主党とホイッグがイデオロギー的に分裂し、前者だけが無産者の利益を何とか代弁しているということではありませんでした。

 1828年の高率関税に対するサウスカロライナの激しい反対運動で勃発した危機によって、これまでの党派は簡単に崩壊していきました。ジャクソンは、ジョン・カルフーン(John Calhoun)の州が関税などの連邦法を無効化政策する権利については断固反対し、民主党内外で広く支持されていました。この危機に対する「偉大な仲介者」かつ「偉大な調停者」と呼ばれ、ホイッグ党の創設者かつ指導者であったヘンリー・クレイの解決策である妥協関税は、ジャクソンとのイデオロギーの対立ではなく、クレイの調停能力、戦術的な巧みさが功を奏したといわれました。

 ジャクソン派は、第二合衆国銀行との戦いを、西部、債務者農民、貧しい人々一般を抑圧する貴族の怪物との戦いとして考えていました。1832年のジャクソンの大統領再選は、銀行戦争に関する民主党の解釈に民衆が同意したことの表れと理解されました。第二銀行については、多くの西部人、多くの農民、そして民主党の政治家でさえ、主にジャクソンの怒りを買わないために反対したことを認めていましました。

 大きな政府を望まないジャクソンは、かつて政府が設けた第二合衆国銀行を、州ごとの独自財政を奪うとともに庶民の利益に沿わないとして、これを敵視し、自らの政治生命をかけて廃止に動くのです。ジャクソンは連邦議会が認めた第二合衆国銀行の特許更新に対して拒否権を発動し、それに対して議会は反発します。結局拒否権を覆すのに必要な三分の二の票を反ジャクソン派は確保できず、第二合衆国銀行は連邦の保証を失い破産に追い込まれます。

 どの国も中央銀行の存在は大きいです。アメリカの連邦準備制度理事会(FRB)とは日本銀行にあたります。金融政策や準備金であるフェデラル・ファンド(Federal Funds-FF)の金利誘導目標を決定しています。連邦準備銀行に預け入れる無利息の準備金が不足している銀行が、余剰の出ている銀行に無担保で資金を借りるときに適用される金利を指します。欧州中央銀行はユーロ圏17カ国の中央銀行のことです。

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